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<大多喜町立上瀑小学校校歌制定の経緯>

1 校歌制定年月日
      昭和37年3月4日

 2 校歌制定理由
    昭和36年4月又新小学校から上瀑小学校に転任した浅野新一郎氏(故人)は,上瀑小学校にまだ校歌のないことを知り,
    ぜひ校歌を制定したいと思った。

 3 校歌への願い
    緑の山々や田園に囲まれた校舎で学ぶ素朴な子供たちの姿をそのまま詞にした。

 4 校歌制定にあたっての苦労やエピソード,また,発表会の様子
    作詞にはこの地域をよく知っている人にお願いしたいと考えた浅野新一郎氏は,同じ校長仲間であった狩野一氏に依頼した。
    狩野一氏は快く引き受けて下さった。作詞者は決まったが,作曲者となると,この道の専門でなければならない。
    しかし,それには相当の費用を必要とするが,当時の地区の人々から寄付を仰ぐのも困難な時世であった。そこで,
    浅野校長は下大多喜地区にかって鷹司家(元公爵)に仕えた,清水きみさんを通じて,アマチュア作曲家鷹司平通氏に作曲を依頼した
    平通氏はきみさんのたのみならとこれを快く引き受けてくださった。翌昭和37年2月4日に校歌の発表会を実施した。
    来賓として作詞家,作曲家,声楽家,町長,教育長,地元議員,区長,近隣の校長先生方が参列し,さらに全校児童,
    PTAも一緒に参加して行われた。その際,作曲家の平通氏は知り合いの声楽家を同道。声楽家による校歌の発表が行われた。
    また,当日来賓として出席された塩田病院長の塩田西雄民より,母校のためにと,財政的援助(5万円)を戴く。

 5 校歌制定当時の学校の様子
    ・児童数 322人
    ・学級数   9学級
    ・職員数  11人

    校長 浅野新一郎    教頭 鵜飼金次郎
 
 
 
 <鷹司平通(たかつかさ としみち)>
 ◎東京都出身。公爵鷹司信輔の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」を応募し、入選する。大阪理工科大学
 (現在の近畿大学)を卒業。
◎1950年5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の第三皇女)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱い
 であり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。
◎幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(1964年)は名著として知られる。
◎鉄道友の会の世話役も務めた。
                                          フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より